雑賀衆残党が太田城に籠城し、上方勢の本隊は太田城攻めに当たった。その一方で仙石秀久・中村一氏・小西行長らを別働隊として紀南へ派遣し、平定に当たらせた。
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上方勢の紀州攻めを前に、紀南の国人衆の対応は分かれた。日高郡を中心に大きな勢力を持っていた湯河直春は抗戦を主張したが、有田郡では神保・白樫氏が、日高郡では直春の娘婿玉置直和(和佐玉置氏)が湯河氏と袂を分かって上方勢に帰順した[80]。このため湯河直春はまず白樫氏と名島表(現広川町)で戦い、続いて玉置氏の手取城(現日高川町)を攻囲した(坂ノ瀬合戦)[81]。
有田郡は紀伊守護の家格を持つ畠山政尚・貞政父子の本拠である。畠山氏は実権はないものの、秀吉との抗争に当たっては根来・雑賀衆に名目上の盟主として担がれており、上方勢の攻撃対象になった。そして畠山被官の白樫・神保氏は前述の通り上方勢に寝返った。3月23日以降25日以前に、上方勢は畠山氏の支城鳥屋城(現有田川町)を攻め落とし[82]、さらに本拠の岩室城(現有田市)も陥落して畠山貞政は敗走した[83]。
日高郡でも3月23、24日頃には上方勢が来襲し、湯河領に侵攻した。直春は防ぎ難いとみて小松原の居館も亀山城(いずれも現御坊市)も自焼して逃れ、伯父の湯河教春の守る泊城(現田辺市)へ後退した。しかし泊城にも仙石秀久・杉若無心が攻め寄せ、28日までには城を捨てて退却し、龍神山城(現田辺市)を経て熊野へと向かった。田辺に入ってきた上方勢三千余は同地の神社仏閣をことごとく焼き払い、その所領を没収した。
牟婁郡(熊野地方)では、口熊野の山本氏が湯河氏に同調して徹底抗戦した。上方勢は泊城占領後に二手に分かれ、杉若無心はおよそ一千人[84]を率いて山本康忠の籠る龍松山(市ノ瀬)城(現上富田町)に向かい、仙石秀久・尾藤知宣・藤堂高虎は千五百の兵で湯河勢を追った。
4月1日、仙石ら三将は潮見峠(現田辺市・旧中辺路町)において湯河勢の反撃を受け、退却した。同じ頃、杉若勢も三宝寺河原(現上富田町)で山本勢に敗れ、討伐戦は頓挫する。だが湯河・山本勢にも上方勢を駆逐するほどの力はなく、この方面の戦いは長期化することになった。
一方奥熊野では、新宮の堀内氏善が4月13日以前には降伏したのを筆頭に、高河原・小山・色川氏らはいずれも上方勢に帰順し、それぞれ本領安堵された。また口熊野でも安宅氏は帰順した。
高野山降伏
4月10日、秀吉は高野山に使者を派遣して降伏を勧め、これまでに拡大した領地の大半を返上すること、武装の禁止、謀反人を山内に匿うことの禁止などの条件を呑まねば全山焼き討ちすると威嚇した。高野山の僧侶たちは評定の結果条件を全面的に受け入れることに決し、16日に客僧の木食応其を使者に立てた[85]。応其は高野重宝の嵯峨天皇の宸翰と空海手印の文書を携え、宮郷に在陣中[86]の秀吉と面会した。応其の弁明を秀吉は受け入れ、高野山の存続が保証された[87]。その後、10月23日までには高野山の武装解除が完了した。
この結果高野山は滅亡を免れ、太閤検地終了後の天正19年(1591年)に一万石の所領を安堵された。また木食応其個人に一千石が与えられた[88]。同20年(1592年)、大政所追善に当たって剃髪寺(のち青巌寺、現在の金剛峯寺)を建立した際に秀吉から一万石寄進されたため計二万一千石となり、江戸時代もこれが寺領として確定する。
太田城水攻め
雑賀荘は上方勢により占領されたが、太田左近宗正を大将になおも地侍ら五千人[89]が日前国懸神宮にほど近い宮郷の太田城に籠城した。3月25日、中村一氏・鈴木孫一が城を訪れ降伏勧告を行ったが、城方は拒否した。
小雑賀の戦闘
太田城以外にも、雑賀では複数の城が抵抗を続けていた[90]。佐武伊賀守は的場源四郎と共に小雑賀の城[91]に籠城し、三十二日間にわたって守り抜き、太田城開城後に続いて開城したという。
太田城攻防戦
太田城水攻めの絵図太田城はフロイスが「一つの市の如きもの」と表現したように、単なる軍事拠点ではなく町の周囲に水路を巡らした環濠集落である[92]。この城を秀吉は当初兵糧攻めで攻略する予定だったが、兵糧攻めでは時間がかかりすぎる[93]ために水攻めに変更した。強攻ではなく持久戦を選択した理由として、兵力の損耗を防ぐこともさることながら、犠牲が増えることによって苦戦の印象が広まるのを回避するためだったと思われる。これに先立つ和泉千石堀城の戦いでは、城の煙硝蔵が爆発したために一日で攻略できたものの攻城側にも多大な犠牲が出ており、太田城でその二の舞を演じることを恐れたと考えられる。
また一面では、本来太田城を守る存在であった水を使って城を攻めることで、水をも支配する自らの権力を誇示しようとしたとも考えられる。水攻め堤防は全長7.2km、高さ7mに及んだ。
上方勢は秀吉自身を総大将、秀長と秀次を副将として、その下に細川忠興・蒲生賦秀・中川秀政・増田長盛・筒井定次・宇喜多秀家・長谷川秀一・蜂須賀正勝・前野長泰などの編成だった[94]。3月28日から築堤が開始された。この築堤工事の途中、甲賀衆の担当部分が崩れたため、甲賀衆が改易流罪となった。4月5日までには完成し、注水が始まる。一方城の北東には以前から治水及び防御施設として堤(以下これを横堤と呼ぶ)が築かれており、籠城が始まると城方によってさらに補強された。横堤の存在によって城内への浸水は防がれた。
4月8日、横堤が切れて城内へ浸水し、城方を混乱に陥れた。ところが横堤が切れたために水圧に変化が生じたことで、翌9日には逆に水攻め堤防の一部が切れ、寄手の宇喜多秀家勢に多数の溺死者が出た。籠城側はこれを神威とみなした[95]。攻城側は直ちに堤防の修復にかかり、13日までには修理を完了させた。17日に織田信雄、18日に徳川義伊と石川数正が雑賀を訪れる[96]。
秀吉は当初、水攻めが始まれば数日で降伏させられると考えていた[97]。しかし一度破堤したことで籠城側は神威を信じ、粘り強く抵抗していた。4月21日、攻城側は一気に決着をつけるべく、小西行長の水軍を堤防内に導く。安宅船や大砲も動員してのこの攻撃で、一時は城域の大半を占拠した。だが城兵も鉄砲によって防戦し、寄手の損害も大きく撤退した。攻略には至らなかったがこの攻撃で籠城側は抗戦を断念し、翌22日、主だった者53人の首を差し出して降伏した[98]。53人の首は大坂天王寺の阿倍野でさらされた。また主な者の妻23人を磔にかけた[99]。その他の雑兵・農民らは赦免され退城を許された。
秀吉は降伏して城を出た農民に対し、農具や家財などの在所への持ち帰りを認めたが、武器は没収した。これは兵農分離を意図した史料上初めて確認できる刀狩令と言われる[100]。宮郷の精神的支柱だった日前宮は社殿を破却され、社領を没収された[101][102]。
戦後
日高・牟婁郡の一部では依然抵抗が続いていたが、その他の地域はおおむね上方勢により制圧された。紀伊平定後、秀吉は国中の百姓の刀狩を命じる。紀伊一国は羽柴秀長領となり、秀長は紀伊湊に吉川平介、日高入山に青木一矩、粉河に藤堂高虎、田辺に杉若無心、新宮に堀内氏善を配置した。また藤堂高虎を奉行として和歌山城を築城し、その城代に桑山重晴を任じた。秀長による天正検地は天正13年閏8月から始まり、翌々年の同15年(1587年)秋以降に本格化する。
和議と謀殺
4月末、湯河直春は反攻に転じたため、これに対応するため四国征伐軍の一部が割かれ紀伊に差し向けられた。9月24日、榎峠の合戦で湯河勢は敗れて山中へ引き籠った。だが同月末には再度攻勢に出て、討伐に当たった杉若無心・桑山重晴・美藤(尾藤)下野守らは苦戦を強いられた。結局上方勢は湯河氏らを攻め滅ぼすことはできず、和議を結び湯河氏らの本領を安堵した。
翌天正14年(1586年)、湯河直春は死去した。直春の死については毒殺説[103]と病死説[104]がある。
国人衆その後
湯河氏は直春の子光春(勝春)が三千石を安堵された一方で、山本[105]・貴志・目良・山地玉置氏は没落した。神保・白樫氏ら早期に降った者は所領を安堵されたが、和佐玉置氏は一万石と伝えられる所領のうち、安堵されたのは三千五百石だった[106]。
生き残った熊野の諸将はおおむね堀内氏に統括されたが、色川氏などは堀内氏との因縁からその指揮下に入ることを嫌い[107]、朝鮮出兵の際には藤堂氏の指揮下に入った。
天正19年(1591年)に秀長が没すると、養子の秀保が後を継いだが、文禄4年(1595年)に急死した。以降は紀伊は秀吉の直轄地となり、代官増田長盛が大和郡山から支配を行った。
紀伊国一揆
豊臣秀長は、一揆勢に対し容赦ない弾圧を加えたこの戦いで紀伊の寺社・国人勢力はほぼ屈服・滅亡させられたが、各地の地侍はその後もしばしば蜂起を繰り返した。守護の支配さえ名目に過ぎなかったのがいきなり豊臣秀長領、次いで秀吉直轄領となり、天正検地や刀狩が行われた。次の浅野氏の統治下でも慶長検地が行われ、地侍たちは財産を削られるだけでなく社会的地位まで否定された。こうした急速な近世的支配に対する反動が土豪一揆という形で噴出した。
天正14年8月、熊野から日高郡山地郷(現田辺市龍神村)にかけての山間部で一揆が起こり、吉川平介らによって鎮圧された。慶長3年(1598年)9月、前月の秀吉の死に乗じて再び日高郡山地郷で一揆が起こり、増田長盛の指揮のもと堀内・杉若氏ら日高・牟婁郡の諸将によって老若男女の別なく撫で斬りにするといった弾圧の末に鎮圧された。
慶長19年(1614年)12月、大坂冬の陣に乗じて奥熊野の地侍・山伏らが蜂起し、新宮城を攻撃した。一揆勢は熊野川で敗退し、浅野勢の奥熊野侵攻によって二十日足らずで鎮圧された(北山一揆)。この一揆で363名が処刑された。翌20年(1615年)4月、大坂夏の陣の勃発に伴い、日高・有田・名草の地侍が浅野長晟が留守の和歌山城を狙って蜂起したが、再度鎮圧された。処刑者は443名に上った。浅野側はこの二回の一揆を紀伊国一揆と称した。
紀伊国一揆の敗北によって、土着勢力の抵抗はようやく終息した。
中世と近世(意義)
紀州攻めはその範囲は和泉・紀伊の二カ国にすぎないが、この一連の戦いでは中世と近世とを分けるいくつかの重要な争点が存在した。
「無縁」の否定
比叡山や高野山は寺社の中でも最高級の格を持ち、その中立性と不可侵性は中世を通じて尊重された。またその独立性は、権力者の介入を退けるだけの経済力と軍事力によって裏打ちされたものであった。一度境内に入ってしまえば、外の事情は一切考慮しない、誰でも受け入れる。ゆえに権力者が寺内で権力を振りかざすことも認めない――このような寺社の思想を伊藤正敏は「無縁」と呼ぶ。
織田信長は、寺社の「無縁」性が敵対者の盾となることを嫌った。比叡山に対する浅井・朝倉軍の退去要求、高野山に対する荒木残党引き渡し要求など、信長は敵方の人間を受け入れないよう寺社に対し要求した。これは権力に対する独立・中立性の放棄であり、寺社側が拒否したのも「無縁」の思想からすれば当然のことである。こうして叡山焼き討ち・高野攻めへとつながり、比叡山は滅び高野山は信長の横死によって命拾いした。
羽柴秀吉も、寺社に対する姿勢は信長の態度を受け継いだ。高野山降伏後に秀吉は、謀反人や犯罪者を匿うことを禁止する、受け入れていいのは世捨て人だけだと告げた。天下人が全てを掌握し管理する近世中央集権体制にとって、権力の介入をはねのける寺社勢力の存在は許せるものではなかったのである